供述心理学研究所・埼玉

意図せぬ「嘘」の共有:甲山事件


 ある出来事について,目撃証言以外に決定的な証拠が得られない場合,供述証拠の積み重ねによって事実を確定しようとすること自体は自然な流れになります。

 ではどのような供述証拠が得られると,そこで得られた供述内容が客観的な事実を反映したものとして認められるでしょうか。

 まず供述には嘘があってはいけません。供述者は誠実に体験を語ることが要請されます。またその供述は首尾一貫したものでなければなりません。同じ一つの事実を語るときに,時によって供述の内容が変遷するようでは,それは唯一の客観的事実を語ることにはなりません。

 さらに思い違いや記憶の変化などの誤りがあってもなりません。記憶はそもそも記銘の段階で客観事象のコード化という変換を含み,そのコード化を含んで成立する体験事実も多様な要因で変化して保持,再生されます。変容のない記憶はなく,物語化しない供述は存在しませんが,それが重要な点で原事象に反するものになることはあってはなりません。

 知的障害児入所施設甲山学園で発生した園児失踪・死亡に端を発し,後に25年の歳月をかけて冤罪事件として確定した甲山事件で問題になったのも,その中心は「被疑者の女性が死亡した園児を無理やり連れだすところを見た」とする目撃証言と,それを側面から支持するような形で得られた複数の園児たちの目撃証言でした。

 連れ出しの目撃証言自体は,事件後3年目に初めて唐突に出現したもので,内容も物理的にあり得ないようなものを含んでいたり,供述間でも整合性が問われたり,さまざまな問題を含んでいることは明らかでした。にもかかわらず,検察が一度は不起訴にした被疑者を3年後に再逮捕して起訴する根拠になったのは,取調において子どもは自発的に事態を語っており,さらには多少の齟齬は含まれるとはいえ,複数の子どもから独立に核心部分では相互に補完し合うような供述が得られたと判断されたことでした。


 また子どもの知的障がいのレベルについては,その一般的な知的能力からすれば,「嘘をつくことはできないが,観たことを報告することはできる」というある心理学者の見解が利用され,従って園児の証言は嘘ではなく,観たことをありのままに語ったという主張が行われています。
 すなわち,「誰も嘘をつかせようとしていなかったし,子どもも嘘をつけない状況の中で,複数の子どもの供述が概ね一つの出来事を相互補完的に再構成できた」のだからそれは客観的事実を反映していると判断したわけです。

 確かに一人の主観は事実をゆがめて認識している可能性もあり,その客観性には疑問符をつけることが可能ですが,複数の独立した主観が似たような報告を行うとすれば,それは言葉のもっとも基本的な意味において「客観的(他の主観に対しても対象が同様に現れること)」な出来事を感じられるでしょう。常識的にはそれは決して奇異な事実認定の判断とは言えません。

 しかし甲山事件の弁護団から依頼されて私たちが行ったシミュレーション実験で明らかになったのは,まさにその事実認定の素朴で常識的な見方を真っ向から否定する事実でした。「誰も嘘をつこうとせず,誰も嘘を言わせようとはせず,ただ事実を明らかにしようとする意図のもとで聴取を個別に繰り返した結果,全員の証言が一致した。聴取者はそれが事実であることを全く疑いようもなかったが,しかし事実は異なっており,全員が一致し,確信する供述内容は<虚偽>であった。」のです。

 裁判の最終段階で,検察は当時の園児たちへの聴取を記録したテープを証拠として提出してきました。「自分たちは何も誘導して言わせたのではない。子どもたちが自発的に語ったことだ」ということを主張したかったのだろうと思われます。しかし,私たちの実験が示したことは,たとえそういう状況が確保されていてさえ,いくつかの条件がそろえば,無意図的に虚構の「事実」が集団的に共有されることがあるということでした。そして同じような心理学的メカニズムが甲山事件の園児たちにも働いたことが強く推定されていたのです。

取調官役で子どもの聴取に参加してくれた学生たちの感想の一部。彼女たちにとっても大変にショッキングな結果であったことが分ります。(「生み出された物語」より)

「まず,自分の心の中で描いていた像とのちがいに驚きました」「自分の納得できるイメージに合った証言は採用し,自分のイメージに合わない証言は変えさせようとするか,却下していた」「いまにして思うと,どうして実験中に思いつかなかったんだろうということが,たくさんあります」「知らずにしたこととはいえ,自分の聞き取り方で園児の証言が変わっていったことに恐怖すら覚えた」「真相を知ってから,まるで自分が別人になったかのように見る目が変わりました」

 なお,全く意図せずに虚構の「事実」が集団的なやり取りの中で無自覚に生成され,共有され,誰もその「事実」を疑えなくなる,という,素朴な常識を打ち破る私たちの研究結果は非常に印象的なものであったため,甲山事件を特集した朝日新聞の記事にも紹介されましたし,その実験結果を分析・報告する本(「生み出された物語」)は法と心理学会の「法と心理学叢書」第一冊目として発刊されることになり,いろいろな書評を生みました。

 また高木光太郎さんの「証言の心理学」でも多くのページを割いてこの実験を論じられていますし,さらには生物学者の福岡伸一さんも著書「もう牛を食べても安心か」で「まさに記憶は、記憶を想起したそのときに作られているといってもよいことが見事に示された」「非常に興味深い実証的実験例」として紹介され,海外でも中国政法大学の法心理学関連の講義で講演を依頼され,韓国の法心理学会での報告も求められ,上級の裁判官や検察官も含む多くの関係者に驚きを持って受け止められています。

 人の人生に極めて大きな影響を与える判決は,一種の社会的物語としてしか成立しえないのですから,少なくとも明らかな誤判を生み出すような素朴で無自覚に恣意的な物語形成のレベルは脱していく必要があります。そのためには私たちが「客観的事実を共有する」とはどういうことなのか,について,根本的な問い直しがどうしても必要です。この点で物証を重視すること,拷問による自白を認めないことなど,これまでもさまざまな工夫が積み重ねられてきましたが,現在はこの「供述による事実認定とは何か」という問題を,その原理的な問題にまで立ち入る形でしっかりと問い直すべき段階に入っているでしょう。法曹関係者を含む私たちの,これまでの素朴な事実認定の考えだけでは処理しきれない問題が,たとえばこの実験の結果でも与えられているのです。供述分析はそういう「自覚的でより妥当性を持った社会的物語形成」を実現していく努力の一つでもあります。


社会的事実認定の原理を心理学的に考える参考文献
山本登志哉 2008 
 供述に於ける語りとその外部
   :体験の共同化と「事実」を巡って

 サトウタツヤ・南博文編 
 質的心理学講座第三巻:社会と場所の経験 所収
 東京大学出版会
高木光太郎 2011
  回想とディスコミュニケーション

  山本登志哉・高木光太郎編 
  ディスコミュニケーションの心理学 所収
  東京大学出版会