供述心理学研究所・埼玉

ディスコミュニケーションと冤罪


 冤罪の中には悪意ある冤罪もありますが,むしろそのような意図がなくて結果として生まれてしまう冤罪の方がよりすそ野が広く,深刻であると考えられます。

 意図的に人を陥れようとしないのに,なぜ冤罪が生まれるのか,あるいは事実を確定しようと公平に判断するように努力しているはずの裁判で,なぜ深刻な誤判が無くならないのか。その謎を解く一つのカギが「ディスコミュニケーション」という問題です。

 「意図せぬ<嘘>の共有」の項でもご紹介したように,「誰も嘘をつこうとせず,誰も嘘を言わせようとはせず,ただ事実を明らかにしようとする意図のもとで聴取を個別に繰り返した結果,全員の証言が一致した。聴取者はそれが事実であることを全く疑いようもなかったが,しかし事実は異なっており,全員が一致し,確信する供述内容は<虚偽>であった。」という事態は常に発生する危険性があります。

 この実験で見出された現象の場合は,「なんらかの体験事実について,事実を確かめるために話し合う」というコミュニケーションスタイルの意味が,大人の聴取者と幼児の証言者の間で全く異質なものであり,かつお互いにそのズレに気づかないままコミュニケーションが進行した(ディスコミュニケーション)ために,誰も予期しない虚構の物語が共同生成されてしまったという展開がありました。(そのズレの意味を発達心理学的に分析した論文はこちらYamamoto2001LawandPsychology.pdfです)

 素朴に言えば「誤解に基づくコミュニケーション」と言えますが,私たちが文化比較研究などを通して作り上げてきた「拡張された媒介構造(EMS: Expanded Mediational Strucuture)」という概念を用いて説明すれば,コミュニケーションを成り立たせるためのルールや常識(規範的媒介項)にズレがある状態として分析が可能です。

 ここでは鑑定「組織的殺人事件における「共犯者」供述の心理学的分析」の事例を引き合いに説明をしてみましょう。

 これは殺人事件の実行犯が,親分に命じられてやったという,いわゆる「巻き込み型」あるいは「引き込み型」の供述を行い,一審で親分(被告人)が無期懲役判決を受けたケースです。

 鑑定結果ではこの供述に信用性はないことが明らかになりましたし,実際その後実行犯自身が「あの供述は検察と相談して作った虚偽の証言で,親分を罪に陥れるためのでっち上げのものだった」ことを控訴審で証言するに至った,かなり珍しい展開を示している事例です。

 裁判官および裁判員がそのような供述の危うさを認識できなかった理由にはいくつかの要素が絡んでいると考えられますが,その重要な背景の一つが,「やくざ世界の常識」と「裁判官や裁判員の持つ(堅気の)常識」が非常にずれていたにもかかわらず,そのズレに全く気付かれていなかった,あるいはそのズレを無視したことであると考えられます。

 たとえばこの事件で検察が立てたストーリーは,ある大きな組の末端組織で起こった殺人事件に対し,武闘派であると目されるその組の総長=被告人が自分の組のメンツを守るため,「返し(報復)」を厳しく指示し,その指令に従って全組織一丸となって対立する組織に報復を行った,というものでした。

 そのストーリーによれば,被告人=総長は普段から「やられたらすぐにやり返せ,絶対に負けるな,なめられるな。」と組員を教育し続けてきたとされ,実行犯はこのストーリーにそった供述を行い,激しく興奮しながら報復を厳しく指示する様子を生々しく描き出していきました。

 素人からすると,このストーリーはなんとなくこわもての暴力団が,お互いのメンツや縄張の争いの為にやりそうなことに感じられてしまうだろうと思います。

 しかし,やくざ的な常識からすれば,まず第一に総長程の雲の上の存在が,その下部の下部組織の,顔もみたことのないような若い関係者(正式な組員でさえない)が個人的なトラブルで殺されたとしても,その返しに自ら積極的に介入するなどということはおよそ考えられないことのようです。

 しかもやくざ組織は基本的に組がひとつの「家」のように成り立ち,その中で親子関係や兄弟関係を作って動くものです(擬制家族システム)。私たちの日常でも,たとえば会社の上司に自分の家の子どものことについて,命令的に口出しされることは基本的にありませんが,同じように下部組織にはその組織の自治があって,上の組織の親分が,下の組織の子分に直接指示を出すことも基本的にはありません。会社のように上が下の組織全体の人事権を握っているような,そういう構図でもありません。

 実際の抗争の仕組みも,従って軍隊組織のように中央の司令部の命令一下,全組織が機械的に動き出すような形にはなっていません。それぞれの組がそれぞれの事情を抱え,それぞれの動機を持ちながら,時として兄弟同士で応援しあったり,直接の親子間で依頼や命令などが行われたりし,それらが順次伝播しながら全体の動きを作る,という形が基本であるようです。

 また抗争は基本的にはトラブルを起こした人間,あるいはその組組織の内部で納め,上部などには迷惑をかけないことが重視されているようです。今回の事件でも,喧嘩の当事者となった末端組織の構成員が,上の組織の人間にそのように謝っている場面が供述されていますが,この図式ではわかりやすい展開です。

 日常のトラブルはそのような形で小さく処理されていくことが基本であり,よほどのことが無ければ大きな組同士の抗争には展開しないような仕組みが作られています。

 けれども検察のストーリーにも,判決の認定にも,そういうやくざ組織の基本的な仕組み,行動原理が関係する可能性についての理解が全く示されていません。逆に非常に単純に,中央集権的な軍隊的上意下達の組織の動きとして「親分の命令一下,全組織が動き出す」イメージで全体を描き出しています。そのイメージが先行するので,「親分の命令がなければ○○が可能なわけがない」という推論で多くの問題が処理されていくのです。

 さらにもし検察のストーリーや判決の認定通りの展開であったとすれば,それは下手をすれば巨大組織間の血で血を洗う大抗争事件に発展しかねないものであったことになります。けれども今回の事件の発端は本当に末端組織の関係者の偶発的なトラブルのようで,それが導火線となって大爆発を引き起こすような背景的事情が見えてきません。

 その結果,検察によって描き出された展開は,とうていそのような大きな展開を覚悟した本格的な抗争劇ではなく,何の計画性もなく無謀な争いを行うという,まるで場末の「チンピラ」の喧嘩のようなレベルの話になっていました。

 この点については地裁で被告人側は説明を試みていましたが,被告人側の証言はことごとく信用性が無いと判定されて,その説明が受け入れられることはありませんでした。

 もし仮に裁判所が,この被告人側の説明を,仮にでもよいので一旦可能性の一つとして真剣に検討し,その視点から事態の進行を素朴に見つめなおしたとすれば,事件の展開は全く異なる意味を持って現れてきたはずです。そしてその柔軟な視点があれば,判決が全面的に信用性を肯定した検察側証人の証言のかずかずの問題点にも容易に気づけたはずでした。

 実はこのやくざ的世界への無理解については,虚偽証言をしたと今回証言を行った実行犯ですら,虚構のストーリーを検察と作り上げていくプロセスで,検察が推定する事実に関して「そういうことはやくざではありえない」「そういう言い方はやくざはしない」という説明を何度か行ったと証言されていました。にもかかわらず,検察がそれを考慮することが無く,結果として実行犯はそのまま検察のストーリーに巻き込まれて虚構の「事実」を「リアル」に証言するようになったのだ,というのが実行犯の証言から浮かび上がる構図です。

 そしてその虚構の証言を,判決では「(三人の証言は)いずれも不自然,不合理な点はなく,異なる場面でのそれぞれの体験したことを真摯に供述している上,通話履歴などにより裏付けられており,直接・間接的に補強しあう関係にもあって,その信用性は極めて高いと言うべきである。」と評価したということになります。

 ある人々が関わる出来事には,その人たちが持っているその人たちなりの「論理(規範的媒介項)」が作用します。自分とは異なるかもしれない,そういう異質な「論理」の可能性に対して鈍感であると,実に奇妙な推論が大手を振って判決文にまで至る,ということが起こりうるわけです。ディスコミュニケーション現象の典型例の一つといえるでしょう。

 なお,このようなディスコミュニケーションの問題について,さまざまな事例をもとに分析し,さらに理論的な整理を行ったものとしては以下があります。



  山本登志哉・高木光太郎編 

  ディスコミュニケーションの心理学 
 
         東京大学出版会
 
 また,文化心理学の立場から,コミュニケーションのズレの生成過程と,そのようなズレを含みつつ人々の社会的な関係が形成されていく過程を理論的に整理したものとしては以下があります。(EMSのある程度詳しい解説も掲載されています)


山本登志哉 2015 

 文化とは何か,どこにあるのか
   :対立と共生をめぐる心理学

            新曜社